2024年の始まり

去年の年末は、いつもと違って忘年会もカラオケもなし。

おめでたいとも言えないような年の始まりでした。

1月1日の能登地震にも動揺してしましたが、不穏なことはその前から始まっていて、

29日の夜にはメトロの中で携帯をひったくられ、プラットホームを犯人を追いかけて転びました。

その時打った膝は、今でもちょっと痛みます。

年末の花火に行ってみましたが、以前のように、年末の静かな中で上がる花火ではなく、たくさんの車が集まり、そこらじゅうで爆竹と花火を自前であげていました。

草に火がついて警察が消しにきている始末。

煙が濛々と立ち込め、本番の花火は始まらず。

耐えきれず家に帰りました。

すごく暴力的な風景でした。

 


 

そして、一番大きな出来事は、部屋の又貸しをしている隣人が、1月1日に亡くなったことです。

アパートのひとつ上の階に住んでいるグザビエとクロエは自由人で、しばらくグアテマラに住んでいましたが、帰って来たばかりの時知り合いました。

グザビエがブリュッセル生まれだったこともあり、古巣に戻ってきたというかんじなのでしょう。

ブリュッセルはほんの一時の仮の宿のつもりだったので住民票もおかず、私たちと家賃を折半していたのです。

グザビエは大工仕事を請け負ったりしてしていたので、仕事用のバンを持っているので、車が必要な時は手伝ってもらうこともあります。

私のアパートは洗濯機が置く場所がないので、彼らの台所にある洗濯機を使っていました。

10月ごろ、グザビエがコロナに罹ったと聞きました。

現在ベルギーでは、コロナかどうかいちいち調べたりしないし、風邪のような扱いになっているので、大して気にしていませんでした。

いつも車で移動しているのに、仕事で車を現場に置いたままメトロに乗って帰宅し、その後発症したと本人は言っていました。

その後、何週間も経っているのに、いつまでもだるくて咳が出るし、アフターコロナではないかと。

ところが、グザビエの咳は止まる気配もなく、毎晩上の部屋から苦しそうに咳をしているのが聞こえてきます。

洗濯をしに部屋に行っても、いつもベットに横になっていて、声をかけられる様子ではありませんでした。

1ヶ月ぐらいしてやっと病院に行きましたが、結果はアフターコロナではなく肺癌でした。

そして、検査結果がはっきり出てから、グザビエが決断したのは、治療ではなく安楽死でした。

癌は両肺だけでなく脳や肝臓にも転移していていたし、彼は化学療法をやるつもりもありませんでした。

ベルギーでは2002年から安楽死は正式に認められています。

クロエは、安楽死の手助けをするアソシエーションを探してきて、働いていたレストランも休職。

グザビエの最後の日のために最善を尽くすことを決めたのでした。

クロエが言うには、アソシエーションの対応は迅速で丁寧。

病院とは大違いと言うことでした。

すぐに看護師が来て、酸素ボンベや痛み止めも用意され、なるべく楽に過ごせるようにしてくれます。

27日は、グザビエのお別れ会が開かれ、大勢の人が来ていていました。

初めは、グザビエに会うことさえ拒否していたというお兄さんとお姉さんも、出席していました。

一緒に暮らさなかった息子も。グザビエによく似ていました。

自分が死ぬとわかっていて、逝く前にみんなに会って一緒に過ごした日々を振り返るのは、とても自然なことのように思われました。

亡くなった後、みんなお葬式に来てくれるかもしれないけれど、その時はもう話すこともできないのだから。

グザビエは、ソファーに座って長めの靴下を履いていましたが、その足がとても寒そうに見えました。

「足がつめたそう。」と、軽くマッサージをしてあげた時、

彼は、「僕は死ぬのが悲しい」と言いました。涙が溢れていました。

その時、私も本当に悲しくて、悲しくて。

彼の悲しさが私の中に流れてきた瞬間でした。

好きなことだけをしてきた人生だし、無理に長らえたくないといいながらも、やっぱりこの世を離れるのは悲しい。

執着とかではなく。

私がひったくりにあって、転んで膝を打った夜、グザビエは近くの病院に入院しました。

苦しくて、家にいるのは限界だったのです。

クロエからメッセージを見たのは朝になってからで、私は病院まで歩いて行きました。

病院の敷地内にある茂みの中に小さな家があって、そこが緩和ケアの場所になっています。

各部屋には、患者の家族たちが集まっています。

グザビエの部屋にも、お兄さんやクロエの友達たちがいて、常にグザビエの手を握っていました。

その日、グザビエは時々軽口を叩く余裕もありました。

次の日は大晦日。誰かのうちでパーティーがあったり、うちに集まってカラオケをして過ごすのが常でしたが、そんな気持ちにもなれず。

コロナ以降、家で好きなことをしている方が楽ちんになってしまいましたから、年末は、もともと静かに過ごすつもりでした。

次の日も病院に行ってみると、前日よりグザビエの具合が悪いのがわかりました。

その日は軽口もたたきません。時々襲ってくる痛みの波に耐えています。

今度は私がグザビエの手を握っていました。彼はずっと目をつむったままでした。

1時間ほどして手を解いた時、グザビエは驚いたように目を開けてました。「行ってしまうの?」と問いかけているような表情でした。

「明日もくるね」と言い残して帰りました。

私が今借りているアトリエに色んなものを運ぶのを手伝ってもらったこともあり、「アトリエはどうなった?」と聞かれたので、写真を送っておきました。

でも彼がそれを見ることはありませんでした。 


 

グザビエは1月1日の朝に亡くなりました。クロエもシャワーを浴びにアパートに戻っている時でした。

安楽死の日は、まだ決まっていませんでした。

みんな年末年始は休暇で出かけるので、そういう都合ったのかもしれませんが、年明けの1週目になる予定でした。

結局、グザビエは安楽死の日を待つこともなく亡くなりました。

具合が悪くなってから、たった2ヶ月しか経っていませんでした。

そんなに親しかったわけでもない人ですが、こんなに彼の死のことを考えてしまうのはなぜでしょう。

肉親の死よりももっと身近に感じてしまうのは。

私が見せられたのは、自分の生と死に対する気持ちをちゃんと現していたグザビエの姿だったかもしれません。

人間は生きているうちに言いたかったことをなかなか人に伝えられないし、父が一人で亡くなったときに何を考えていたのを知る術もありません。

死んでいく姿を見せたくないと思う人もいるでしょう。

グザビエは、ちゃんと「僕は死んでいくよ」とみんなに死ぬ前の姿も晒していました。

さよならパーティーにきていた人達、多くは、若い頃コミューンで一緒に暮らしていた友達や、昔の恋人。

クロエを支えるために彼女のお母さん、お兄さん、フランスの友達も少なからずきていました。クロエも、彼の最後の願いを叶えるために最善を尽くしていました。

そこにグザビエの死に向かうベクトルが、はっきりと示されていたように思います。

それは、今まで見たことのないやり方でした。

それから、自分の死ぬ時のこともよく考えるようになりました。

終活なんて全く興味なかったのだけれど、生きているうちにやっておくことは色々あるなと。

私が過ごしたきた時代の終わりと、新しい世界が来るのを感じつつ。

自分の生きるベクトルはどこに向いているのか、見極めなければなりません。

安楽死についても少し見方が変わりました。

生きる側からの、選択肢の一つとして。

残された未来は短いな。



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