クリストファー・ノーラン監督作品、原子爆弾の父と呼ばれたロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた映画「オッペンハイマー」を見ました。
日本でも、そろそろ公開が決まるようです。日本字幕でもう一度見たいな。
登場人物が多いので、おさらいのためにも。
映画の最後にオッペンハイマー が見たイメージが出てきます。
宇宙空間にいるオッペンハイマーの目の前に、地球上のあらゆるところから、幾つものキノコ雲が地球を覆っている雲を突き抜けて上がって行く様が。
なんだか背筋が寒くなり、映画館を出てすぐ、NATO本部までどのくらいの距離があるのか調べてしまいました。
NATO本部は、うちからブリュッセルの国際空港に行く途中にあり大した距離ではありません。
だいたい12キロ。
ロシアとNATOの敵対によって、NATO本部が核攻撃の標的にされるのでは、とビビっているEU本部職員もいるのです。
広島型の原爆で全滅するのが、2キロ圏内だと言われていますが、今の原爆は、当時のものより威力が強いので、 実際のところ、どこまで影響があるか誰にもわかりません。
核戦争後の世界を描いたディストピア映画は枚挙にいとまがないけれど、原爆投下の地獄絵図を実際に体験したのは、今のところ広島と長崎の人たちだけです。
真夏に日本に帰ると終戦の時期にかぶります。8月に、日本のテレビでは終戦を特集した番組をやっていますが、今年NHKスペシャルでは「原子爆弾・秘録 ~謎の商人とウラン争奪戦~」という番組を放映していました。
原爆に使われたウランは一体どこからきたのか、と言う話です。
ベルギーが採掘していたコンゴのウランがアメリカに渡った話は以前から聞いたことがありましたが、仔細はよく知りませんでした。
コンゴは当時ベルギーの植民地で、ベルギーの会社、ユニオンミニエールが コンゴでウランの採掘をしていました。そこの社員だったエドガー・サンジェによってウランはニューヨークに移され、アメリカ軍に売られました。彼がいなければ原爆は完成しなかったかもしれません。
番組はこちらで見られます。
https://www.dailymotion.com/video/x8nbxv7
番組の内容はかなりショックでした。歴史の流れというのは織物のように、糸のちょっとした掛け違えによって大きく変わるものです。
当時、核分裂反応が発見されなければ、コンゴで純度の高いウランが採掘されなければ、アメリカが参戦しなければ、エドガー・サンジェが優秀なビジネスマンでなければ、、、、と。
番組をFacebookで共有すると、ビジュアルアーティストでフィルムメーカーでもあるトシエさんから連絡がありました。
以前、彼女が製作したオランダのコンゴ大使館に関するフィルムを作っている時に、翻訳や通訳を手伝えるフランス語話者を紹介したことがあります。
Toshie Takeuchi https://www.toshietakeuchi.com/bio/shortBio.html
彼女の関心はコンゴ人からの視点です。ウラニウムが採掘されたシンコロブエ鉱山で働く人たちも被爆していたはずです。そして、ウランが原爆に使われたことをコンゴ人はどう思っているのか。ベルギーからの資料はたくさんあるのにコンゴからの資料があまり出てこないと言っていました。できるなら、この件に関して、コンゴ側からのアーカイブというものを作っておきたいと。
特に印象に残っている話は、彼女がブリュッセルのアフリカミュージアムの研究者の一人としたメールのやり取りです。
トシエさんがメールでウランに関する質問をしたところ、彼は、「申し訳ないけれど、原爆が日本に落とされたことに関して、私は罪悪感を持っていない。」と書いてきたそうです。それを読んで、そんなことは全く質問したつもりではなかったトシエさんは、自分の中にも何かしら日本人として、気にしている部分があったのかもしれないと思いました。そしてベルギー人たちはどう思っているのかということも知りたくなったそうです。
私の周りのベルギー人何人かに聞きましたが、それについてはよく知らない人の方が多く、学校で教わったかもしれないけれど覚えていないということでした。ほとんどの人にとって、自分には関係のないことなのです。
アフリカミュージアムは整備された広い公園の中にあり、コンゴの植民地化を進めたレオポルド2世が万国博覧会開催の際に、コンゴから強奪してきたものを飾ろうと建てられた建造物です。今では、ベルギーが植民地にしてきた搾取を隠さず展示する試みも行われていますが、先日、植民地時代の写真を紹介したアーティストの展示が科学的ではないという理由で取りやめになったりしています。
美しい場所ですが、色々なパラドックスを抱えた場所でもあります。当時は正当化されていた植民地政策、富を持つことによる略奪、搾取、人種差別と、そこからさらに富を得ること。
とはいえ、当時、どのようにベルギーがコンゴを植民地にしたかという経緯をスタンリーの手紙などから見ることもできます。
Musée royal d’Afrique centrale : https://www.africamuseum.be/fr
番組の中で、サンジェの腹心だった、ジュリアン・ルロアの孫がインタビューで言っていたのは、「祖父は、会社を選ぶしかなかったと思う。祖父は最善を尽くしたというはず。それはサンジェも同じです。ただ最高のものを手にしながら、それに手をつけない選択など出来たでしょうか」。そして、彼らは歴史の流れに絡め取られたのだと。
それは、ハンナ・アーレントが言った「凡庸な悪」とは違うものなのでしょうか。
サンジェはユニオンミニエールの名誉会長となって、最後までアメリカにウランを売り続けました。その上、1946年にアメリカから米国籍以外の人物としては初めての功労章を授与されています。
会社の利益を得るため、自分の地位を向上させ守るためにも、彼にはそれを途中でやめる理由は見つけられなかったわけです。
結局のところ、戦争中ベルギーの倉庫にあったウランはドイツ軍に奪われ、ドイツ敗北後、ソ連の手に渡って核開発を成功させました。冷戦の誕生です。
広島、長崎での原爆での死亡者数は20万人にも登ったこと。世界の勢力圏争いがウランによって方向付けられ、サンジェが全力を尽くしたビジネスが、世界成り行きを左右してしまったことを、もし彼が意識していたら、彼の行動は変わっていたかもしれません。
オッペンハイマーの映画の中では、ドイツが降伏してしまい、原爆を落とす理由がなくなってしまったので日本に落とそうと議論する場面が出てきます。何人かの科学者は反対しましたが、オッペンハイマーは最後までやり通してしまいます。
これも、「最高のものを手にしながら、それに手をつけない選択など出来ない」ということなのかもしれません。とにかく原爆を完成して落とすところまではやらなければならなかった。それぞれが最善を尽くした結果がこの今の世界です。
オッペンハイマーは原爆投下後、水爆開発について反対しています。「私の手は血で汚れている」と震えながら。
サンジェはどうでしょう。こんな世界になったのは自分のせいではないと言うでしょうか。
ニューヨークに住むアーティストの友人、ヤスヨさんが、マンハッタン計画をテーマに近くに住む人を対象にしてワークショップを開いています。
Yasuyo Tanaka http://yasuyoart.blogspot.com/
原爆開発がニューヨークから始まったことも、案外みんな知らないと言っていました。歴史も知らなければなかったことになってしまう。
世界は複雑すぎて、全てを知るのは難しいですね。絡んでぐしゃぐしゃになった糸をほぐす作業のよう。糸はきれていないなら必ずどこかにつながっています。
それが、今私がイメージしている世界の成り立ちです。
破壊的ではない創造性を持って最善を尽くすことが、私たちにできるのか。
大きなクエスチョンです。
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