人間は移動する Deplacement

去年、Deplacementという題名で個展をしました。

 

こちらからあちらに移動するというような意味です。展示したのは、コラージュ作品でした。

 


切り抜いた写真をあちらこちらに動かしている間に、何かができてしまってあら不思議、というような作品づくりをしています。

最終的に、それぞれのイメージが動かしがたくなくなったところで完成なのですが、それは部屋の模様替えや風水にも似て、画面の中で、窮屈なところに風を通したり、逆に詰めたりしてバランスを取って行きます。そして、何かを付け足したり取り除いたりして徐々にまとまっていきます。

 

最初からうまくいくわけでもなく、時間をおいて何度も別のイメージを上から貼り直したり、いらないものは削ったり色で潰したりするので、なかなか簡単にでき上がるものでもありません。その上、時間をかけたからと言ってよくなるとも限りません。

私がよく使うのは、蚤の市で見つけた古いポートレートや中世絵画の人物像で、彼らは 、私の手によって、 海の上に浮かばされたり 場違いな場所に貼られたり、あるべきところから異次元 に移動させられます。

 


私は専制君主のように、写真の人物を知らない場所に放り込むのです。

 

展覧会のオープニングに来てくれたフランス人のフランソワが、自分の人生はまさにDeplacementだ、と言っていました。

彼は南米に長く住み、今はベルギーに住んでいますが、 いつかまたメキシコに住みたいと言っていました。

それは、今のところ実現可能な段階ではなく、ただの夢想でしかありません。しかし彼は、常に移動を夢見ることでバランスをとっているように見えます。

 

  彼との会話の後、人が別の場所に移動するということの意味、または移動させられることによって起こる喪失感や、ルーツを求めていく感覚についてつらつらと考えるようになりました。そもそも、人が移動することで何が起こるのか。

 

歴史上、様々な理由で、思わぬ移動を強いられた人たちはたくさんいます。

カルカッタに住む友人アシッドは、子供の頃バングラデシュから家族で移動してきたと言っていました。バングラデシュがパキスタンから独立した頃ではないかと思われます。

調べてみると東パキスタンだったバングラデシュには多くのベンガル人が住んでいて分離独立を求めました。当時パキスタンの中央政府の武力鎮圧から殺戮が行われ、多くの人たちが難民となってインドに移動したといいます。アシッドはその時に家族と一緒にカルカッタに移り住んだのです。

今でも貧しいバングラデシュからカルカッタに、経済移民として越境してくると人たちがいますが、だいたいはリキシャの運転手をしているとか。

歴史的背景を知らずに人の話を聞いてもポカンとしてしまうことがよくあります。こういう時は、本当に自分の無知が恥ずかしい。

 

民族的な移動は政治的側面が強く、それによって多くの不幸なことを強いられてしまいます。

ブルノーがパリの書店で買ってきてくれた李恢成の「流域へ」という本を読みました。

今、ブルノーのマイブームは韓国で、漫画や小説を読みあさっています。だいたいが国境問題に関係あるものです。

「流域へ」は、李恢成が実際に中央アジアに招待された時の経験を元にした小説で、在日朝鮮人の主人公が、ロシアやカザフスタンに住む朝鮮系の人たちに会ってインタビューするという形式で進められるお話です。

 

 

そこには、シベリア出身の在日朝鮮人である作家の苦悩が色濃く描かれています。同じ在日でも、韓国側からきたのか、北朝鮮側からきたかで、立場や考え方が違ってきます。まず基本となる祖国が違います。そして日本で同じように差別されながらも対立していて、私たちには気づくことのできない複雑な人間関係があるというのをこの小説で知りました。

フランスやベルギーに住むベトナム移民の人たちも、北から人たちと、南から来た人たちの関係はとても微妙だと聞きました。

平和を求めて移動しても、もともとあった対立は解消されるわけではありません。国を出ることになった原因が双方にある場合、わだかまりがあるのは当然のことですが。

 

そして、「流域へ」 の中心になるのが、34年問題。主人公がソ連に住む朝鮮系ロシア人にインタビューをしながら、当時の状況を記録していきます。

なぜ、多くの朝鮮人がロシアに住んでいるのか。

ロシアと朝鮮が国境を接していた沿海地方は、1860年にロシアに併合されていますが、そこに住んでいた朝鮮人は1934年には、スターリンの命令で中央アジアに移動させられ、 カザフスタンなどで農業に従事しています。これは、1932年から33年に起こったホロドモール、無謀な集団農業化によるソビエトでの大飢饉が関係しているのかもしれません。33年には、カザフスタンで100万人の餓死者が出ています。

 

 

                Wikipediaから。道に倒れる農民たち。  


 

小説の中では、クリミア半島から追い出されたタタール人の証言もあります。

彼らは大2次世界大戦中にドイツ人に協力した、という罪状の代償として砂漠の多い中央アジアの流域に強制移動させられた、と書かれています。

その数、なんと19万人。


1954年にウクライナへ移管されて以降、クリミアはウクライナの領土になりましたが、今現在、再びロシアが併合しています。

でも、ずっと前は、実はタタール人の土地だったというのは初耳でした。

19世紀の初めには、ロシアやウクライナからの移民流入によって、タタール人はすでに少数派になっていましたが、2014年のロシアのクリミア併合の前は、自治区があって24万人のタタール人が住んでいたようです。

今はどうなっているかというと、ロシアの部分的動員が発令されて以降、トルコに亡命を希望するタタール人が一気に増えているとか。

というのも、クリミアで徴兵される若者の100人のうち80人がタタール人。

早く出国しないと、家族が徴兵されてしまうという焦りがあります。

タタール人って、もともとなんなの?っていうこともあって、ここでは書ききれないので、また次回。 

 

Deplacementをテーマに調べだすと、抜け出せない泥沼にはまりそう。

そのぐらい、近代になってからの民族の大移動はいたるところにあって、今でも継続中です。

ヨーロッパの行く先にも、移民をどう扱うか、という問題が大きく横たわっています。

あらゆる人種を飲み込んで国を平和裡に継続できるのか、というのが課題としてあるように思います。そもそも国って何?

自分自身が移民の一人で、どういう立ち位置で、ベルギーで暮らしていけるか、というのも個人的には大きな課題でもあります。

 

この話題はまだまだ続きそう。

 

 

 

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