女性たちの春 Printemps des femmes

3月8日は、国際女性デーです。

ブリュッセルでも、女性を中心とした大きなデモがありました。それに合わせて、ブリュッセルにある カルチャーセンター, Ten Weyngaertでも、女性のアーティストだけで展示をするという企画がありました。

何回かそこで展覧をしたよしみで、私にも声がかかり参加することになりました。

 

今回は「森としての胎盤」という作品を作りました。

胎盤というのは不思議な臓器で、赤ちゃんができると血管が拡大して栄養を供給できるように準備します。胎盤を覆う血管は、木々の枝のように広がって、胎児とともに成長していきます。それはまるで燃え上がる森のようです。

女性の体の中では妊娠すると自動的にそれが起こり、自然に受け入れていく不思議。

母の臓器でありながら子供の臓器でもあり、違う血液型の子供でも安全に栄養を受け取れる完璧な仕組み。そして、出産の時は子供と一緒に排出されてしまう犠牲的な臓器。自然が女性の中に創造した神秘の一つです。

 

私は、ドレスの中に浮かぶ胎盤と、それにつながる胎児を作りました。ドレスの背中には森の木々が広がっています。

前回の個展では、コラージュを縫い付けたミニドレスを作りましたが、時々頼まれるコスチュームの仕事に影響されたのか、 自分の表現にリンクさせたくなってきました。


体を包むドレスと、その中に入る肉体の関係とは。

 



当日、14人のアーティストが展示をしました。

そのうちの一人は、私が紹介したブラジル人の友人、アラニーです。彼女はトランスセクシャルで元々は男性。ブラジルにいるときはコミュニストのグループに入っていたため、警察に捕まって何ども拷問を受けています。

もともとインディオの住む小さな島の出身で、彼女は何重にもマイノリティなのです。

 

彼女の描いた絵は、背中を向けた自分の裸の姿があり、その前には鏡があって、乳房とペニスの両方がついた子供が写っているというもの。フリーダカーロを彷彿とさせるとてもいい作品です。

 

ところが搬入日の直前、オーガナイザーのサロアさんから突然私に電話がかかってきて、すごい剣幕でアラニーの作品についてまくし立てています。

よく聞いてみると、どうやら彼女の提示した保険の値段が高すぎるのと、作品の中に描かれたペニスが問題らしいのです。また、鏡の中の少年にはいくつもの手が伸びていて、後ろ向きの彼女の下半身からは血が流れています。それが、とてもバイオレンスだというのです。 

保険の値段が高すぎるのは、アラニーにとって作品は自分自身。とても大切なものです。 彼女にとっては初めて展示だということもあり、びっくりするほどの値段をつけてしまったようです。

 

保険の問題はどうにかできるにしても、作品をとやかく言われるのはちょっと違います。もともとサロアさんがこの展示で目指しているのは多様性であったのに。

 

サロアさんは、モロッコ人の元気な女性でイスラム教徒です。

確かに、イスラムのタブーというのが気になるのは分かりますが、絵の内容を問題視してしまうと、企画の根本が崩れてしまいます。絵自体が暴力的だということですが、それがアラニーの現実であり体験してきたことであれば、それを表現するのも彼女の権利です。

サロアさんは、親子でこの作品を見たとき、お母さんは子供になんて説明したらいいの?と言うのですが、私は、事実をそのまま伝えればよいのでは、と答えました。たとえショックなものであっても、それがアートの役割でもあるからです。

アラニーも激しい性格なので、サロアさんと電話で言い合いになったらしく、サロアさんのすぐ後にアラニーからも電話がかかってきて相談に乗ることになりました。

私だって忙しいのになあ。やれやれ。

 

 急遽、アラニーの家に行って解決策を話し合い、結局ペニスは何かシールのようなもので隠すことになりました。逆にシンボリックな感じになっていいかも、ということで。

保険に関しては、オリジナルではなくコピーを飾って保険料を下げるということで落ち着きました。ホッとしてビールをいっぱい飲んでしまった。

行く途中で買って行ったお寿司は、私がほとんど食べてしまいました。これは、私の権利だよね。

 

オープニングの日には他のアーティストとも顔を合わせ、作品を見て話をして、なかなかの賑わいでした。

映画上映やシアターもあり、それを見て考えさせられたのは、特に移民の女性たちのことです。移民の家族の中でも女性の立場は弱い。60年代から移民排斥を掲げる地域で根を張り、地元の人たちとの関係を築いてきた女性たちがいることを知りました。

 

上映されたのは、NPOを運営する中で、ケータリングの仕事を受注し、そこに移民の若者を研修生として受け入れていく活動をしている女性のドキュメンタリーでした。

彼女が映画の中で語っていたことで印象的だったのは、今まで一度も皿洗いをしたことのない青年に、「この皿を洗うように」と頼んだら、女性に家事の手伝いを頼まれたことにショックを受けていたという話です。

若い男の子の意識を変えていくには、こういう女性の力は大きいかもしれない。

ブリュッセルで以前起きたテロ事件も、移民の2世がジハードとして関わっていましたが、溜まった不満やエネルギーを別の方向に持っていくためにも、移民の意識も中から変わる必要があるのかもしれません。

 

 

山盛りクロワッサンのあさごはん

 

 

ベルギーの植民地だったコンゴの女性たちは、勉強が遅れがちな移民の子供たちや、フランス語の拙い大人たちが勉強しに来られるようなアソシエーションを運営しています。

シアターでは、アソシエーションのアトリエに参加したコンゴ人のおばあちゃんたちが、ベルギー植民地だったコンゴで生まれた自分のストーリーをそれぞれ語っていく、という演出でした。まだ4回しかリハーサルをしていないと言うことで、たどたどしく、言い間違えて最初から読み直したり。それはそれで面白かった。

6人の語り部のうちの一人は、お父さんの仕事でコンゴに住んでいたというベルギー人女性。彼女は、語りの中で自分がベルギー人であることを恥じていました。

それは、ベルギーが、コンゴに対してどれだけ酷いことをしてきたか、ということに対する告解であり、彼女に人生に大きな影を落としているのです。

  

物語るというのは、誰に話すというわけでもなく、隠れていた気持ちが知らずにこぼれ落ちてしまうもの。 

近所に住んでいても、案外その人の人生のことまではわからない。どんな小さなことでも語られることで、お互いに寄り添うきっかけになるのかもしれない。

 

参加アーティストの中では、アンヌの作品が印象的でした。

彼女は、ラディカルに作品を作り、ゲリラ的に自分のデッサンを街の壁に張ったりしています。女性に対する暴力と、それによるトラウマがテーマです。殴り書きされたテキストや街のいたずら書きと呼応するように自分のデッサンを張って行きます。彼女の作品のメッセージはとても強くてまっすぐでありながら、繊細で傷つきやすく、詩的な感じさえしました。

筋金襟のフェミニストという感じですが、話してみるととてもオープンで優しい。また別の機会に会えたらいいな。

 


 

お祭りの最後には、女性だけのディスコパーティー。

アラニーに言わせれば、「女性だけ」とすることが、すでに差別的だということですが、普段、家で家事をして、子供の面倒を見て、夫のいうことに歯向かわずに生きている女性たちの息抜きの場を提供したいという、オーガナイザーのサロアさんの気遣いも理解できます。

 

こうして、長い長い女性の日は終わりました。イベントはいろんな地域で次々と行われるようです。

参加アーティストは、みんな言いたいことが多すぎて、打ち合わせやオープニングでは喋り足りない感じ。

5月にはクロージングもやることになりました。よかったら足を運んでください。

  

 

追記: アラニーの作品には、ペニスの部分に本の形をしたシールを貼ったのですが、その後、誰かがそれを剥がそうとした跡が見つかりました。

やっぱり隠すことで好奇心を駆り立ててしまうのよね。人間って。。。

 


 

 




 

 

 

 

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