遠くにみえる山

 ついさっきのことです。

アパートの上の階に住んでいたトゥーリアのお兄さんが、いつものように、うちの呼び鈴を押しました。

彼女自身はアパートを引き払う前から、ずっとリハビリセンターに入っていて、お兄さんが日曜日ごとに彼女宛の手紙を取りに来るのです。

ブルノーが、手紙を渡した後戻ってきて「トゥーリア死んだって」と言いました。9月中頃のことだったそうです。

マドリッドの病院に移るかも、あちらの方がいいから、と聞いていたので、まさか急に亡くなるとは思っていませんでした。

確かに、ずいぶん前から電話で言っているのことが聞き取れないぐらい滑舌が悪くなっていましたが。

 

2年前に彼女について書いたブログはこちら。

https://sachiyohonda.blogspot.com/2020/12/blog-post_23.html

動けなくなってからは、一人息子の子供の頃の写真ばかりみていました。 

実際、同居している息子が、動けない母親の面倒を見るのは大変だったと思います。大学卒業したばかりの若い男の子なので、結構イライラも募っていたみたいだし。

ブルノーは、「可愛い息子が親離れするのが嫌で病気になったんだ。」と意地悪なことを言っていましたが、亡くなってしまったらそんなことは言えないよね。

彼女は病気で苦しんだのだから。

トゥーリアはただのお隣さんで、彼女のことはそんなにたくさんは知らなかったけれど、リハビリセンターに入る前に、家にあったスパイスをたくさんもらいました。ありがとうね。

 

私の父も8月の中頃に亡くなりました。

父も今年の初めからリハビリセンターに入院していて、 ある朝、息をしていませんでした。

肺の病気で、誤嚥性肺炎を避けるためずっと栄養はチューブでとっていて何も食べてられず、去年会った時はものすごく痩せていました。

食いしん坊の従姉妹は、もし自分なら耐えられないだろうと、何か食べられるものがないだろうか、好きだったコーヒーの香りを嗅ぐのはどうだろうと色々提案してくれましたが、本人は、食べられないことが辛いという様子でもありませんでした。

 

ヨーロッパに出て以来、父とは疎遠だったし、世代が違って分かり合えないことも多かったので、最後ぐらいは手を握って送り出すことができればと思っていましたが、去年日本に帰った時は、コロナのせいでほとんど会うことができませんでした。そして、母もオミクロンの感染爆発以来、面会ができず、最後は一人で静かに亡くなってしまったのはとても寂しいことです。

 

無口な祖母が亡くなった時も思ったけれど、故人が何を思ってこの世を去ったかは、誰にもわかりません。

悔いが残っていなければいいなと思います。

祖母は大正生まれで、父は昭和の初め。戦争や関東大震災など、激動の時代を生きてきた彼らの話をもっと聞くべきだったのか。

私もあと何十年か生きて、何か一言でも誰かに残したりするのだろうか、と考えたりもします。

 

火葬場で焼き場から出てきた父の脛の骨は長くて立派なものでした。

それをが、父が私に最後に見せたものです。

コロナで、帰国後の自主隔離が続いていれば、葬式への出席は諦めざるを得ないだろうと覚悟していたけれど、ちゃんと呼んでもらえたのですね。俺の骨を見ろ、と。

 

お経をあげてくださった、若いお坊さんの声が素晴らしく、ずっと聞き惚れていました。

いいお葬式でした。

私はなぜか日本のお葬式が好きです。結婚式より、成人式より、ずっと。
魂が入っていないご遺体の周りに、故人の本当の姿が、親族を通じて現れてくるような気がします。

そして、亡くなった後に残った膨大な遺品の数々。片付けるのに気が遠くなるような。 何を残して何を捨てるのか、私たちに問いかけてくるのです。残された影のように。

 


父の棺に入れた絵です。私たち兄弟が小さい頃、連れて行ってもらった尾瀬の風景だと思います。

写真を撮るのも趣味だったのに、自分の写真はあまり残っていませんでしたが、旅立ちの道導にちょうどいい絵があったのも不思議なことだなあ。

 


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