震災10年目

 今日は、東北大震災から10年目です。

当時はブリュッセルにいて、本震の前の日の夜、たまたま見たYahooニュースで、北陸で震度5の地震が起きたのを見ていましたが、それが余震だとは夢にも思いませんでした。

当日の午前中、私は自宅で、クラリネットを吹く友達とリハーサルをしていました。その時に「日本がすごいことになっているみたいだよ」と友達が言っていました。

ネットの映像を見てみると、地震と津波の映像が目に入ってきて、本当に現実に起こったこととは思えませんでした。

そして原発事故。

これも偶然なのですが、事故の2日前、BBCのレポートでチェルノブイリのレポートを見ていました。確か事故後25年のレポートだったのだと思います。

森で取れたキノコの放射線量の高さと、それをニコニコしながら食べる人たちにショックを受けました。汚染と一緒に暮らすというのは、こういうことなのかと。

 

それから元東芝の原子炉格納容器の設計者である後藤政志さんの発言に行き着き、外国人記者クラブでの後藤さんの会見を見てみると、東京在住のフランス人が母国から緊急避難するようにメッセージかきているが実際にそれほど危険なのか、と後藤さんに質問しているのを聞いてかなり驚きました。その時は、まだ東京は大丈夫だろうとタカをくくっていましたから。

 

ベルギー人の友達も東京の家族は大丈夫なのか、とメッセージをくれました。

東京と福島は250キロ離れているから大丈夫、と答えたら、「チェルノブイリ事故で言ったら、250キロは避難圏内だよ」と言われて、そういえばそうだと。

私の家族も友達も、みんな東京にいるので、電話をしてみましたが、家族は避難するつもりはないようでした。

親友も、足の悪い両親を連れて避難はできないと言っていました。

彼女の大家さんはドイツ人で、爆発があった次の日には国外に出てしまったんですけどね。

友達は、もう、東京に残ると腹をくくっているようでした。

そういえば、彼女は昔から大津波の夢を見る、と言っていました。

ディープインパクトという映画を見たら、怖くて泣きじゃくったと言っていたから、予知能力があるのかもなあ。

 

 


 


この時の経験で、「避難する」というのは、多くの人にとってかなりハードルが高いのだということを実感しました。

茨城に住む遠い親戚は、娘夫婦は仕事があって残らなければならず、おばあちゃんと孫だけとりあえず関西に逃げたようですが、小さい子供と二人だけではおばあちゃんの体力が持たず、10日間ぐらいで戻ってきたようです。

長期避難するのは、さらに大変だということです。

放射能汚染された様々な食品がそのまま出荷され、水道の水も汚染される中、放射能の基準値が決められ、まあ、しょうがないということになりました。

原発の近くの地域と違って、大きな被害が見えないというのは、逆に何をするべきかを見極めるのは本当に難しい。特に、政府もメディアの発表があてにできないときには。

 

ベルギーにも、建設して40年経った古い原発が一つあります。

廃炉を決めるか、20年稼働を延長するか議論されていますが、小さなひびがたくさん発見されたこともあり、故障が多い年寄り原発をまだまだ動かそうというのも気の触れた話です。

ベルギー政府は、いざという時のために全国民にヨウ素剤を配りました。

そんなことするぐらいなら、原発を止めた方がいいと思うのですが。

コロナの感染が世界中に広がって、何だか、原発事故後の日本みたいだなあ、と思ったりもします。見えないものに対して右往左往している私たち。

マスクもいいのやら悪いのやら。

 

 

 




ベルギーのエコロの党から、原発事故後の経験話を自撮りして送って欲しいというメールを受け取りました。

私は現地にいたわけでもないのですが、自分の体験と感じたことをビデオにして送りました。そこで、「10年前に日本で起きたことを、ベルギーで体験したくない」ということを強調しました。

もし、ベルギーで原発事故が起こったら、私たちは直接の被害者になるでしょう。

ベルギーのような小さな国では、全国民が国外に出なければいけないような事態になるかもしれません。

エコロの党には頑張って欲しい。

 

東北の被災者の方々は、この10年大変だったと思います。

決定的に、以前の生活に戻れないという現実を叩きつけられて生きていかなければならない。

生活を何とか立て直した人たちも、心からこの日が消えることはないでしょう。

何度でも、何度でも、亡くなった方のご冥福と、生きている人たちの健康を祈りたいと思います。

 

外国に住んでいて、何がわかるんだと思われることもあるでしょうが、それでも私には見守る事しかできません。

 

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