しばらく打ち捨ててあったブログを再開してかき始めましたが、頑張っている割には1ヶ月に一本しか書いていないのはどういうわけでしょう。
文章を書くというのは訓練が必要だなぁ、というのが最近の感想です。
書き始めた時に思っていたのとは全く違う締めになったりするのは、絵を描くのに似ています。
初めは日記のように、日々のことを書きたいと思っていましたが、人が読むことを考えて書くというのは日記とはまるで違います。あっちこっちの思考が一本の線に繋がって初めて、まとまった文章が出来上がってきます。
頭の中で、ああでもないこうでもないとやっている間に時間が経ってしまうのです。
思ったことを、そのまますぐ書けるのも才能なのでしょうね。
これからは、週に2本は最低書けるよう頑張ってみようかな。
早速、最近見た映画のことを書くことにします。
ウクライナ人の監督、ヴァーツラフ・マルホウルさんの作品、異端の鳥(The painted bird)です。
ポーランドの作家 ジャージ・コシンスキー原作の映画化だそうですが、白黒で映像が美しい。監督がこの本に入れ込んで11年かけて制作したそうです。
ホロコーストを避けて預けられた先で叔母さんが死に、家が焼けて、一人で彷徨う少年の話です。
厳しい自然の中、たどり着いた村々で様々なことが起こります。
多くの書評では、人間の残酷さ、社会の地獄絵図、ホロコーストの本質、過激な暴力表現、途中で席を立つ人も、と書かれていますが、私は、それがあまりピンときませんでした。
確かに少年は、いく先々でひどい暴力に会いますが、その度に助けられたのは、シャーマンの女、粉挽き小屋の女房、野生の鳥を売っている男、半分死にかけた父親の面倒を見ている淫乱女。教会の神父さん、ドイツ軍の兵士、ソ連軍のスナイパー。
助けられた人から理不尽なことをされたとしても、その人たちがいなかったら少年は死んでいました。その辺がパラドックスです。そんな目にあったも生きていた方がいいのか、死んだほうがましだったのか。
中国残留孤児もこんな感じだったかもしれませんね。
村人に死に神と呼ばれ、ユダヤ人だと言って狩られ、虐待されて、大変な目にあいながらも、彼はいつも生き延びます。目の前で、ホロコースト行きの汽車から飛び降り兵士に撃たれた、たくさんのユダヤ人の死体の間を縫って歩きながら。そして、後半、自ら人を手に掛けることになります。
映画の中で、暴力を振るうものは、ある意味滑稽であり孤立していています。
少年は傍観者でもあり、彼の視点が人の貧しさや残虐さを映し出し、物語っているように感じました。
そして、戦争が終わり父親に再会できることで、彼は自分の名前を取り戻します。そこに、何かメタファーがあるように思うのですが。
原作を読んでみたいですね。
原作者は、ユダヤ系ポーランド人のアメリカ移民で、「異端の鳥」は自伝だとも言われています。そして彼は1991年に自殺しています。
色々と謎の多い人物です。
この映画の題名になっている「異端の鳥」というのは、少年自身のことを表しているようです。白人ばかりの国で、浅黒い肌で髪の黒い少年が一人で旅をし、常に排除され迫害されます。
教会で神父様の手伝いをしている時でも、彼の差し出す募金箱に小銭を入れる人はいません。そして、ユダヤ人なのか、ジプシーなのか、と聞かれても、彼は説明する言葉を持ちません。
ベルギーのドキュメンタリー映画作家で、リディア・シャゴールという人がいました。いました、というのは、最近亡くなったばかりなのです。
「異端の鳥」をみて、彼女のことを思い出しました。
彼女の作った「Ma Bister」という映画は、ジプシーに対する差別の歴史を描いています。
ヒットラーの頃には、ユダヤ人よりも先に収容所に入れられたのはジプシーたちでした。ジプシーの暮らし方は他のヨーロッパ人とは全く違います。異端であるから社会から排除されます。
昔の話だけではありません。現在のフランスでも、ジプシーがキャンプを張ることは禁止されています。フランスでは、多くのジプシーが定住を余儀なくされているようです。
リディア・シャゴール自身も数奇な人生を歩んできた人で、亡くなった時は89歳でした。新聞には老衰と書いてありましたが、最後まで自分で車を運転していましたし、お元気でした。
リディアは、子供の頃、お父さんの仕事の関係でオランダ領だったインドネシアに住んでいました。彼女はそこで、日本兵の捕虜になっています。
戦後解放されてベルギーに戻ってきましたが、その時のトラウマから、学校での軍隊式の教育に慣れることができず大変だったようです。
Hirohito, empereur du Japon : un criminel de guerre oublié?
(裕仁、日本の天皇。戦争犯罪は忘れられたのか?) という本も書いています。
実は、私と相方のブルノーは「Ma Bister」のDVDを見たばかりの頃に、あるコンテンポラリーダンスの公演の会場で彼女を見かけました。
ブルノーが、すぐに気づいて話かけ、彼女の連絡先をもらいました。
そのあと、彼女の他の作品のDVDを直接買うことになり、何回かカフェで待ち合わせをしました。私も同行した時に、三人でいろいろな映画の話をして、今村昌平のドキュメンタリーと大野一雄のDVD貸してあげました。今度会う時に返しますねと言っておられました。
ところが、今年に入って全く連絡が取れなくなってしまいました。メールの返事もこないし、電話をしてもいつも留守電で。
コロナも流行っていますし、何しろ高齢です。ブルノーが心配して、お家に様子を見にいくことにしました。
彼女の名刺をもらっていたので、それを頼りに自宅に行ってみたのです。
そこでわかったのは、彼女が最近亡くなったばかりだということでした。
ブルノーが隣の人に話を聞いたところ、何ヶ月か前に、車で家の壁にぶつかったそうです。その時は怪我もなかったのですが、もしかしたら事故が原因だったかもしれないね、ということでした。
私は、カフェで会った時に、日本人としてなんと言えばいいのか考えていましたが、その時は捕虜時代の話は出ませんでした。
もっといろんな話がしたかった。とても残念です。
リディアは、他の作品でも、ヒットラーと子供達の話を描いたドキュメンタリーを作っています。洗脳されたドイツ人の子供達、そしてナチに殺されたユダヤ人の子供達の話。
常に差別や迫害にアンテナを立てて表現してきた人だったんですね。
過去を語る人が亡くなって、この先のことは私たちに託されているのかもしれません。
この先、私たちが過去にあったような暴力や迫害に加担しないでいられるか。
これからの分断の時代に。
コメント
コメントを投稿