頭の引き出しから

記憶というのは不思議なものです。
普段は忘れてるけど、引っ張りだそうとすると、頭の引き出しから、仔細なことまで 芋づる式に出てきます。
今と過去を行きつ戻りつ、スリランカの旅行日記を書いてみると、過去を振り返ってみることがだんだん面白くなってきました。
日記をつけようとしても、私はいつも3日坊主で、なかなか続けることはできません。
後で読み返すと面白いのに、なんで続けられないんだろうと考えてみると、自分に自分のやったことを説明するのが面倒になってくるからのような気がします。
基本、日記は自分のために書いているわけで、知ってることを知ってる私に語ろうとすると、ここまで書く必要あるのか?、とだんだんなってくるわけです。
だったら、後でまとめて思い出せばいいわけです。きっと、そのやり方のほうが私に向いています。
取りこぼしていることもたくさんあるだろうけれど、それはそれで、自分の印象に強く残ったことだけが、鮮やかなイメージを持って、私の頭の引き出しに収まっていることがよくわかります。
記憶に残った出来事だけが今の自分を作っていくのです。
私たちは、結局、過去の記憶を頼りに、今の行動を決定していくのです。
未来がどうなるのか、いろんな人が予想を立てて論じていますが、その時がやってくるまで、本当のことはわかりません。
台風が来る場合、何日も前から警戒警報が出ていても、やっぱり犠牲者は出てしまいます。
リスクを避けるために準備することは大切だし、この先 何がやってくるのかを想像するのは楽しいけれど、未来が現在にならない限り、自分が生き残れているるかはわかりません。
特に今の時代、大きな変化の中では、10年後の未来も予測不可能のように思えてきます。
きっと私の生きてきた世界を基にして、未来を想像することは叶わなくなるでしょう。
それなら、これから来ることを思い煩うより、失われつつある過去を書き留めておくことで、現在の自分を検証してみるほうが建設的かなと思いました。
逃れられない未来の自分と出会うためにも。


過去の記憶を辿りながら、3ヶ月前のスリランカ旅行のことを書いてきましたが、もっと昔の、20代に初めてスリランカを訪ねた時の記憶が、頭の引き出しから溢れ出てきたので、それも書いておこうと思います。
最初にインドとスリランカを旅行したのは30年近く前です。
当時は、大学を卒業した後、みんな長期の旅行に出るのがお決まりでした。
バックパックの旅行が流行り始めた頃です。
私や当時の友達みんなが影響されたのが藤原新也の「印度放浪」です。
Wikipediaでは、「インド放浪記として大きな反響呼び、当時の学生運動の終息後、精神的支柱を失くした青年層のバイブル的な存在となった。」と書いてあります。
インドに行くことが、その頃の若い人たちの精神世界への出発点だったのかもしれません。私もご多分に漏れず、その波に乗ったわけです。
インド、スリランカ合わせて一ヶ月の旅でしたが、旅行全部を書いているとまた長くなるので、今回はスリランカの話だけにしておきます。

スリランカにいたのは、一ヶ月いたうちの最後の5日間ほどでした。
マドリッドを経由してコロンボ空港に着いてから、 バスに乗って泊まる予定のゲストハウスへ向かいましたが、今と同様ボロバスでした。その上、崖の上を蛇行する道路をすごい勢いで走っていたので、いつか海の方に飛び出すのではないかと気が気ではなかったことを覚えています。
予約したゲストハウスはコロンボ郊外で、海の見える高台に建っていました。家族の暮らす一軒家の2階が客室になっていました。
私と友人が泊まった部屋は、清潔でベットも二つあり、居心地が良かったように思います。
そこを掃除してくれていたのは、目のクリクリした可愛い10歳ぐらいの男の子でした。
スリランカの人たちは小柄なので、もしかしたら、もう中学生ぐらいの年齢だったのかもしれません。
朝、食堂に下りていくと、その家の子供が学校の制服を着て朝ごはんを食べていました。
色白の丸々と太った男の子でした。
今考えてみれば、掃除をしてくれた子は、住み込みのお手伝いだったように思います。
二階の階段脇には粗末な寝床がありました。 きっと彼は学校にも行っていません。
そのような格差を初めて見てショックでした。その頃、私はまだ世間知らずの学生でしたから。 
そして、多分、彼はタミル人でした。



当時、南インドから来たタミル人のテロが激しくなっていました。
19世紀のイギリス植民地下で、最初、タミル人はプランテーション労働のため強制的に連れてこられました。その後、イギリスによる分割統治で、タミル人は優遇され、多くが役人として採用されて、多数派のシンハラ人を統治する方法がとられてきました。
ところが、1946年のスリランカ独立以来、シンハラ人中心の仏教国となり、タミルの権利が縮小されることで、独立運動が盛んになって行きました。これはイギリスが世界各地の植民地で行ってきたことで、そのおかげで、植民地支配後の世界で、多くの内戦の原因となっています。
ゲストハウスの奥さんによると、最近この辺りの鉄道がタミル側の過激派に爆破されたばかり、とのことでした。
2009年には、内戦の終結宣言が出されています。
今回訪れたコロンボのサロンでも、タミル人の男性が住み込みで管理人をしていました。 
タミル人は嘘をつかないということで、 こういう仕事に重宝されているということでした。
パリに住んでいる時も、タミル人の移民の人たちを何人か知っていました。
彼らは、寿司屋で下働きとして裏でお寿司を握り、のちのち独立する人もいるようでした。本当は、みんな真面目な働き者なんでしょうね。

ゲストハウスに話を戻すと、私は友達と相談して男の子にチップをあげることに決めました。
まくら銭、というのでしょうか。ベット脇に小銭をいくらか置いておきました。
その男の子は、私たちが出発する前に、その小銭を忘れものだと持ってきたのです。
私たちはびっくりして、それは、あなたへのチップだよ、と言ったのですが、最初はなかなか受け取ろうとしませんでした。その男の子の誠実さに心うたれました。
なんだか、テレビドラマの「おしん」のようですね。
結局、最後には受け取ってくれました。
おかげで、私たちは、ちょっとした自己満足を感じることが できたわけです。
あの時の男の子は、きっと今ではしっかりとおじさんになっているはず。
どんな暮らしをしているやら。

そのあと、どうやって旅程を選んだのか全く覚えていません。ですから、このあと起こったことが、どのあたりだったのかはわかりません。
内陸部の小さな町だったような気がします。 
そこで声をかけてきた、チンピラ風のスリランカ人のおじさんとカフェで喋っていると、今夜、田舎の方でセレモニーがあるから見に行こうということになりました。
人拐いのおじさんでなくて本当に良かったと思います。今考えると、知らない人についていくのは無謀なことですが、若い時の冒険心は抑えられません。
まず、おじさんの家でご飯をご馳走になりました。日が暮れないとセレモニーが始まらないからです。
家族みんなで食卓に着くと思っていたら、ご飯が出てきたのは私たちの分だけでした。
どうやら、お客さんが食べ終わってからが家族の夕食のようです。家の女たちは、みんな台所にいる様子でした。
ご飯の後、私たちとおじさんと3人で、セレモニーの場所まで自転車を走らせました。

目的地に着いた頃には日は暮れかかっていました。 
そこは大きな家の庭に面したところで、一段高くなっているテラスには、折りたたみ式の長椅子に横たわった年配の男の人と、その家族であろう人たちが座っていました。
どうやら、この男性の病気を直すための悪魔払いの儀式のようでした。
庭にはたくさんの村人が集まっていました。
真ん中には、劇場のように開けられた空間があり、太鼓と笛の音が聞こえてきます。
そこに登場したのは、ひょろっと背が高いシャーマンでした。
草で作ったコスチュームを着て、音楽を奏でています。
結構歳をとっているようにも見えます。そこに、15歳ぐらいの男の子が踊りながら現れました。
暗闇の中で松明の光に照らされたセレモニーは、とても幻想的でした。
ダンスからは、強いエネルギーが感じられました、
少年は松明を手に持ち、ぐるぐる回しながら踊りました。
それだけでもドキドキしますが、次に、足を縛った生きた鶏を持ってきました。
片手に鶏の首、片手に足を掴んで、ぐるぐると振り回しながら踊り出したのにはびっくりしました。
羽がそこらじゅうに飛んで、鶏が死んでしまうのではないかとハラハラしましたが、後でその辺に転がされた鶏は、何が起きたのかよく分からないというふうに首を前後に振っていました。
当時のバカチョンカメラで儀式の様子を写真に撮りました。
村人たちは、日本に帰ったら、このセレモニーの話をみんなにしてね、と言っていました。悪魔払いといっても、村人にとっては単にお祭りなのかな。ゆる〜い感じです。
暗い中なので、写真はほとんどがピンボケでした。
夜も更けていく中、竹で作られたおみこしが出てきて、シャーマンが抑揚をつけた物語を歌い、儀式は永遠に続きそうでした。朝までエンドレスだと聞き、さすがに疲れた私たちは宿に帰ることにしました。
また3人で自転車を走らせました。
帰り道は、行きと違って暗い畑の畦道。慎重に走っていました。
周りからは虫の鳴き声しか聞こえません。
月で照らされた椰子の木々が影絵のように見えています。
しばらく走ると、野犬が後ろを追っかけてきました。わんわん吠えながら、5、6匹はいるようです。
私はおじさんの後ろの荷台に座って足をぶらぶらさせています。
野犬に噛みつかれるとしたら私が一番可能性が高い。もう生きた心地がしませんでした。 
猛スピードで田舎道を駆け抜け、やっと犬たちを振り切って宿に帰り着きました。
今でも忘れることのできない体験です。

 その旅行で一番印象に残っているのはこのふたつのエピソードです。
30年経っても、するすると引き出しから出てくる思い出です。
すでに私の一部になっているのかも。

最後にもう一つ。
私がスリランカを去った次の日に、コロンボの空港で、「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)によるテロがありました。
テロリストが飛行機を爆発させ、21人の死者を出しました。日本人も2人亡くなったそうです。未だに、その時もし飛行機に乗っていたら、と思うことがあります。
ただ運が良かっただけなのかもしれませんね。
去年には、スリランカ全土で259人が死亡する、連続爆破テロ事件がありました。
亡くなった方々の冥福を祈るほか、私にできることはありません。 
未来に起こることは予測できないから、これからも、どの瞬間にどこにいるかが、生死を分ける重大事項になっていくのかも知れません。














 

















コメント

  1. 野犬の話、私にとってはシチリアで起きました。こういうことは一生忘れませんね。それにしても、いつもギリギリですね。

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